19世紀前半のキューバに於けるアフリカ系イスラム教徒の存在に関する考察

同タイトルのスペイン語の論文を訳し纏めたものです。

非常に興味深い内容で、一読の価値あり。

 

原語の論文はコチラ→ Apuntes sobre la presencia de africanos musulmanes en Cuba, en la primera mitad del siglo XIX 

アラブ・イスラムの影響

 イベリア半島やサハラ砂漠以南の民は共通してその歴史的発展にアラブ人の、つまりイスラムの侵攻を受けている。  スペインは711年から1492年1月2日までイスラムの支配下にあった。

 

 サハラ地域ではアルモラビデ族の兵を指揮したアブダラ・ヤシンによってイスラムの強化が行われた。

彼はアフリカ北部、マリ、モーリタニア、モロッコ、アルジェリア、スペイン南部にまで兵を送り、次々と侵略していった。  1054年までにはサハラ南部のガーナ王国を征服し、後のマリ帝国にはティンブクトゥ、ジェンネ、ガオなどにも見られるように、布教活動のための大きな施設を何カ所も建設した。

時が経つにつれ、イスラムの司祭や学識者などがアラブの商隊に同行し、布教を行うようになった。

 

 ハウサ族やフラニ族は伝統的にイスラム教を信仰する遊牧の民であるが、彼らはイスラムの教義を携え西アフリカの国々、現在のギニア、シエラ・レオーネ、象牙海岸、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリア南部、カメルーンなどを旅していた。

 

 アラブの商人達はインド洋を航海し、アフリカの東海岸沿いの小さな島ザンジバルとペンバに住み着くようになる。

彼らはイスラム教を島に持ち込み、文化的にも多大な影響を与えた。

モザンビークのマクア族も彼らの影響を受けている。

 部族間の争いで捕らえられたり、さらわれたり、また奴隷として売られたサハラ以南の地域に住んでいたイスラム系アフリカ人たちは、北アメリカ、南アメリカ、カリブ地域へと運ばれた。

 

 海を渡る以前から既に強くイスラムの影響を受けていたヨルバ族、マンディンガ族、マクア族のグループはキューバにおける奴隷人口の一角を担うことになる。

 

 ホセ・アントニオ・サコは著書『新大陸におけるアフリカ民族の奴隷の歴史』の中で、スペインは新大陸征服の当初、キリスト教を信仰する黒人以外の黒人のスペイン領への立ち入りを認めていなかったと述べている。

しかし1510年、奴隷のもたらす利益に信仰は抗えず、スペインはイスラム色の強いギニアから奴隷を送り出してしまう。

 

 スペインはイスラム教に対して不寛容で、アメリカ大陸へのイスラム系奴隷の輸出を禁止していた。 しかし、ギニアの部族も、アフリカの他の地域の部族も、スペインに対してモーロ人のように被害を与えたことはなかったので、彼らに対し政治的に全く警戒していなかったのである。 スペインは彼らアフリカの部族のどの信仰をも許容していた、つまり、彼らの信仰をカトリックの教義の敵ではないと考えていたのである。

 

キューバの奴隷のルーツとなった部族とその所在

 歴史家のマヌエル・ペレス・ベアトはその著書『ハバナの昔』の中に次のように書いている。

16世紀前半、キューバへ来たアフリカ奴隷のなかにはキシ族の様々なグループのものが見られ、彼らは16世紀を通じキューバに定着したグループのひとつで、キシ・クバーナという名で呼ばれた。

 

 1578年から1588年の間にハバナには様々なアフリカ人が暮らしていた。 ギニア・ビサウからは、ビオホ、カサンガ、ブラム、ナルー族。イスラム信仰が優勢だったセネガンビア(現セネガル及びガンビア)からは、ホロフォ族、マンディンガ族。

 

 18世紀中頃には『カビルド・デ・ナシオン』というレクリエーションと相互扶助を担う21にのぼるコミュニティーが各部族毎に組織された。それぞれのカビルドにはキリスト教の聖人にちなんだ名前が付けられた。

21あったカビルドの内訳は:

カラバリ=5

ミナ=3

ヨルバ=2

アララ=2

コンゴ=2

モンドンゴ=2

ガンガ=2

マンディンガ=1

ルアンゴ=1

ポポ=1

 

 2つの部族がハバナ通りにあったマンディンガのカビルドの建物を共有していたため、彼等は マンディンガ・ホロフォ、マンディンガ・ソソと呼ばれた。   

 

 また、当時マンディンガ族は郊外の町において重要な存在であったようである。フィグラスとカニャーダ通りの名前はもともとマンディンガまたはペニャルベルと呼ばれていた。 というのは、その通りは小さな製糖工場を所有していたルイス・デ・ペニャルベル司祭とその兄弟 アルコス侯爵の邸宅の一部を横切っていたからである。

 

証拠

 1839年中頃アフリカからハバナに53人の奴隷が到着する。 彼らはシエラ・レオーネ、リベリアから連れて来られ、その地域には次のような部族が暮らしていた。

メンディ、キシ、バンディ(ガンディ)、ロマ、マンディンガ

 

 同年7月、奴隷のオーナーであったホセ・ルイスは奴隷達をプエルト・プリンシペ(現カマウェイ) に移送するため船に乗せた。 航海の途中、奴隷による反乱が起き、船の乗組員にアフリカへ向かうよう要求した。 しかし、アメリカ合衆国の警察に捕らえられ、後に裁判にかけられることとなる。

 イギリス人裁判官、リチャード・R・マッデンが北アメリカを旅していた際、ある奴隷が アラビア語の祈りを繰り返し口にしているのを聞いた。 その祈りは次のように言っていた。『Allah Akbar』つまり『神は偉大なり』。 また別の奴隷はこんなふうに挨拶をした。

『Salaam Aleikoum』つまり『平和があなたと共にありますように』

そしてすぐにこう繰り返した。

『Aleikoun Salaam』『あなたと共に平和がありますように』

 

 民族学者であり人類学者のフェルナンド・オルティスはその著書『黒魔術』の中でこう述べている。

よりイスラムやアラブの文化と繋がりがあるマンディンガ族は、キリストの公現日(dia de reyes) には、大きいズボンをはき、短いジャケットを着、青やピンクの絹のターバンを巻き、とても 豪華な出で立ちでハバナの町に列を作る。 

 何年もの間ハバナのカーニバルは、その華やかな仮装行列から、『青のマンディンガ・モロ』 『赤のマンディンガ・モロ』と呼ばれていたが、これはオルティス博士も示すように、マンディンガ族の黒人の間に受け継がれてきたイスラム教の名残である。

 

 スイス人作家フレドリカ・ブレメンは1851年、マタンサスのリモナルの製糖工場を何日にもわたり訪れ、様々な異なる部族のアフリカ人と出会い、あることに気が付く。 

たいていの場合マンディンガ族の中から司祭と占い師が選ばれる。実際マンディンガの地区とヨルバの地区ではマラブー(イスラムの聖なる人間の意)が重要なポジションを占め、司祭、賢者、精神的リーダーの役割を担い、超自然の力を持つと思われている。

 

 フレドリカはハバナにおいてコンゴ族とガンガ族のカビルドを訪れた際のことも書いているが、その中で彼女はこう述べている。彼らの間にはキリスト教の像やシンボルを見かけたが、同じくハバナで訪れたヨルバ族のカビルド『我らが聖バルバラ』においてはそのような物は見当たらなかった。それはおそらくイスラム教の影響ではないだろうか。 なぜならイスラム教のモスクでは偶像崇拝が認められていないからである。

 

 作家ミゲル・バルネットの書いた『あるシマロン(逃亡奴隷)の伝記』は興味深いテーマを与えてくれる。

シマロンのエステバン・モンテホが言うには、ルクミ(ヨルバ族)がもっとも信心深く、彼らは朝のパワーと共に早くに起き出し、空を拝し、祈りをし、打ち水をする。また、歳のいった黒人が部族の言葉で神託をしながら3時間以上も地面に臥しているのをよく見かけたそうだ。 

 

 明らかにシマロンのモンテホが言及したのはイスラム教徒のことで、彼らの1日は日の出の前に始まり、少なくとも1日に5回の神に祈りを捧げる。イスラム教徒にとって空は神の創造物で、そこへ入ることを許されることは彼らにとって人生 最大の成功である。

 

 また、モンテホが言うには、カラバリは豚を売るために殺すようにはなったが、自分達でそれを食べることはなかったそうである。おそらくモンテホが言うこのカラバリたちはイスラム教徒だから豚を食べなかったのであろう。なぜならイスラム教では豚肉を食べることは禁じられているからである。

 また別の有名で決定的な証拠は東部での挨拶『Salaam Aleikoum』『Aleikoum Salaam』で、 現在ではヨルバの儀式や民俗的な集いにおいて耳にするが、これは奴隷としてキューバへ連れて来られたイスラム系アフリカ人の痕跡を象徴するものである。

 

解放奴隷による創作活動

 19世紀初頭キューバではアフリカに起源を持つ人間の人口は白人の人口を数の上で上回っていた。そのため白人達は黒人による国家が誕生したハイチの二の舞になるのではないかと恐れていた。 

 1822年フェリックス・バレラ神父は奴隷解放の必要性を自著の中に記している。 その中で彼は、解放奴隷の大半が芸術に従事しており、その多くが読み書き計算を出来る事、また、彼らが白人社会の中で手にするであろう出版物から、彼らの権利・人権が他の誰のものでもないということを学び取れるため、白人達の間で反乱への恐れが高まっている事などを書いている。

 実際、1828年、フランシスコ・ディオニスモ・ビベス総司令官が実施した国勢調査の結果によると、18歳~100歳の、混血やキューバ生まれの黒人のうち6,754人の男子解放奴隷が52の職業に就き、多くの職場で白人の数を上回り、経済的、社会的発展に大きく寄与していた。

 

 黒人の社会的地位の向上は、ホセ・アントニオ・サコの非順応主義にも影響与えた。 その事は『キューバ放浪記』という1834年夏にハバナの新聞に掲載され、王立ハバナ経済協会から賞を受けた作品の中に書かれている。 

 『芸術は黒人によって独占的に世襲され、文学など2~3の分野が名誉職的に白人に残っているに過ぎず』、黒人は白人にとって計り知れない悪影響をもたらしている、とサコは作品の中で非難している。

 

 シリロ・ビジャベルデは彼の代表作『セシリア・バルデス或いは天使の丘』の中で、音楽家のクラウディオ・ブリンディス・デ・サラス、ウルピアノ・エストラーダ、トマス・ブエルタを、仕立屋のフランシスコ・ウリベを、黒人の優れた才能ある芸術家として重要な登場人物として描いている。 

 都市部における小説の主な舞台として用いられていた家の広間にビジャベルデは、ビセンテ・ エスコバルの作品を置いていた。 エスコバルは1834年に亡くなった有名な黒人の肖像画家で、スペインにおいては王立議会御用達画家という高い栄誉を受けた。 

 

 1839年ビジャベルデの小説が世に出る頃、既にふたりの黒人詩人が成功し人気を博していた。 

その最初のひとりが『プラシド』の名で知られる混血のガブリエル・デ・ラ・コンセプシオン・バルデス。

彼は1834年、スペインの詩人フランシスコ・マルディネス・デ・ラ・ロサに敬意を表して開かれた文学の祭典において自身8番目の作品『シエンプレ・ビバ(永久花)』が最も優れた詩に贈られる賞を受賞する。 

 

 プラシドの後に名声を高めたのがフアン・フランシスコ・マンサノ。

彼は奴隷として生まれた詩人で、1821年に処女作を発表している。その15年後、マンサノは『私の30年』というソネット(14行詩)を発表し、ドミンゴ・デル・モンテの屋敷で開かれていた文化人のサークルから非常に高い評価を受ける。そして彼はまさにその屋敷において、発表したソネットの購読料で集まったお金で自身の所有者から自由を買う事を決意し、1837年に自由の権利を手に入れた。 

 ドミンゴ・デル・モンテに刺激を受け、1835年からフアン・フランシスコ・マンサノは自叙伝を書く事に専念するようになる。 それは自身の経験から来る奴隷制のもたらした悲痛な物語で、奴隷階級の人間が書いた唯一の作品として彼が自由を得て間もなくのころに発表された。社会的、政治的背景からその大変意義深い作品はキューバでは発表されないままであったが、1940年、リチャード・R・マッデン博士によって他の詩と共に英語に訳されロンドンで発表された。

 同年、パリでは、フランス人奴隷廃止論者のビクトル・シュルシェールは奴隷廃止に関する本を出版し、その中で彼は奴隷の詩人『マンサノ』を取り上げ、フランス語に訳した作品を幾つか紹介 した。

 

詩とイスラム的思考

 アメリカやカリブ地域に奴隷として連れて来られた何百万というアフリカ人のうち、かなりの割合の人間がアラビア語をある程度理解し、その記憶の中にコーランの祈りを留めていた。そのため、あるキーワードやフレーズを用いるだけでイスラム信者としての自覚を目覚めさせ、注意を引き、イスラム信者を自由回復への戦いへ導くのには十分だった。

  黒人の奴隷や解放奴隷の心へ届く、生きた見本としてのフアン・フランシスコ・マンサノとガブリエル・デ・ラ・コンセプシオン・バルデスの狙いはそこにあったように思われる。彼らはその作品の中で奴隷制や専制的圧制という恥ずべき制度を告発し、自由を、独立を、そして祖国を讃え、イスラム的象徴と思考を広めていった。 

 

 まさにその頃、1830年代、キリスト教徒は奴隷解放を推し進めていたイギリス、アメリカのプロテスタントとその教義を有害であるとみなす奴隷制支持のカトリックとに2分されていた。

奴隷解放主義者による活動に関しキューバの総督、ミゲル・タコンが1835年8月31日、スペイン政府に送った公式文書の中で、ジャマイカではメソジスト派の宣教師がアフリカ系の人々にスペイン語で書かれた聖書を配布し、間違った解釈を正すことを任されている、と報告している。

 

 マンサノとプラシドの作品の根底に見られるイスラム色は、検閲官に不信感を持たれる事はなかった。というのも、当時ハバナの民衆はアラブをテーマにした文学作品に触れたり、劇場での公演を目にする機会があったからである。  1831年10月1日、ハバナ新聞はボケテの角にあるラモスの本屋がホアキン・T・デ・トゥルエバ・ イ・コッシーオの歴史小説『アルプハーラのムーア人、ゴメス・アリアス』を入荷したことを告知している。

その勅令によるとそれらの奴隷は、『傲慢で、反抗的で、扇動的で、矯正不能で、プエルトリコやその他の島々で起きた黒人の反乱や、キリスト教徒の死亡事件の首謀者である』。 

 

 サント・ドミンゴでは、第一波として到来した奴隷の集団はセネガンビアにルーツを持っていたのであるが、1753年~1758年にかけてフランソワ・マカンダルに率いられた大規模な反乱が起こった。マカンダルはイスラムを標榜するシマロン(逃亡奴隷)で、フランス人入植者は彼を非常に恐れていた。 

 18世紀の終わりにかけてサント・ドミンゴでは至る所で大規模な反乱が起こり、1804年、世界初の黒人共和国に、そして新大陸初の独立国家となり、それ以降新大陸に沸き起こる解放運動の手本となった。

  

 1831年8月、奴隷であったナット・ターナーはバージニア州サウスハンプトンにおいて反乱を企て始め、多くの奴隷が彼の元に集ったが、10月30日に捕らえられ、後に16人の彼の信奉者と共に絞首刑になった。

しかしこの反乱はアメリカ社会の奴隷制支持者の深奥に大きな影響をもたらした。    

 

 ジャマイカのマンチェスター地域では1832年、イスラム教徒モハマド・カバ・サガニグに指揮された奴隷達が蜂起。

解放を目指すカリブのこの島における同様の運動に拍車をかける出来事となった。

 それから3年後の1835年、ブラジルのバイーア州サルバドールでは、奴隷解放、キリスト教の終焉、イスラム勢力の確立を求めてイスラム系の奴隷が反乱を起こした。

 

 キューバでは1840年代に2つの大きな奴隷の蜂起がマタンサスであり、黒人、白人共に死傷者を出し、経済的損失をもたらした。 

1843年3月26日、27日の夜、マタンサス州カルデナス市のアルカンシア製糖工場で働く奴隷の反乱が起こった。 この動きは当時その農場で働いていた大部分がルクミ(ヨルバ族)だったことから『ルクミの反乱』 と呼ばれた。その反乱に加わった340人のうち220人(男168人、女52人)がルクミ族で、全体の 63%を占めていた。 

 

 植民地の警察の報告によると、反乱にはカラボッソという柄の長い、先の尖った、鋭い刃の剣が用いられ、防御用には動物の生の皮を盾として用いていた。しかし、彼らの主な武器は火、つまりろうそくだった。サトウキビの搾りかすの保管庫への放火がアルカンシア製糖工場における反乱の開始の合図となり、その炎は同地域の別の農園のサトウキビ畑や、搾汁小屋、ボイラーハウスなどをのみ込み、燃え広がっていった。ルクミ族は、コーランの一節『アラーを、そしてその使徒マホメットを信じない者には灼熱の炎が 用意されている』(勝利、48章、13節)に突き動かされて反乱を起こしたのではないかと思われる。 

 

 同年11月5日、マタンサスの市街地からほど近くにあるトリウンビラート製糖工場にて決起集会があり、キューバ史上最大のアフリカ人奴隷による反乱が始まった。 ルクミ族2人とガンガ族1人が指揮をとったこの反乱によって、サトウキビ畑、製糖工場、 そして近隣の農場までもが炎に包まれた。 これら2つの抵抗運動は奴隷制支持の入植者の心に大きな衝撃を与え、その時代の評論家は次の ように述べている。

 『この事件において黒人達は、サトウキビ畑に火を点け、類似の事件でもそうであったように山中へ逃亡することによって満足するものではなく、6人の白人を殺害し、近隣の農園へ移動し、そこで働く奴隷に蜂起を呼びかけ、全有色人種の解放を宣言した。そうして、繰り返し起こるこれらの反乱が、これまでのどの反乱ともその性質や起源が異なるものであると、理解しなければいけなかった』

 一方、サンタ・ロサ製糖工場のオーナーで、カルデナス地域の奴隷の反乱で工場に火をつけられた資産家の農場主ドミンゴ・アルダマは、1844年3月2日付けでキューバ総司令官へ報告を行っている。

1833年と1840年、ハバナでは4幕ものの悲劇『アラブの家族、アブーファル』が詩人ホセ・ マリア・ヘレディアによってキューバの劇場用に翻訳、編集され上演された。

1838年3月、友愛出版はガリアスのアラブ人という2幕もののメロドラマ(音楽劇)をアラメダ・デ・パウラの劇場で上演するために出版した。

1841年にはオビスポ通り113番地にあったトーレス出版の本屋はミゲル・セルバンテスのドン・キ・ホーテ・デ・ラ・マンチャを売り出した。この本の根底には『囚われのキリスト教徒』と『追放されたモリスコ(旧イスラム教徒)』 というテーマが流れている。

 ~~中略~~

 

信仰がアフリカにもたらしたもの

 19世紀前半、イスラムの教えを守るための闘いが、そしてアフリカ諸国の解放を謳った重要な運動が頻発していた。 それらの動きがアメリカ大陸へ運ばれた奴隷の魂に、また、イスラムに触発された奴隷解放運動に影響を与えたことは間違いない。

 1804年~1808年の間、現在のナイジェリアではソコト帝国のカリフ、ウスマン・ダン・フォディオによって聖戦が繰り広げられた。

 1817年、ウスマンが亡くなると、その息子ムハンマド・ベロがカリフの位に就き、父ウスマンの意志を引き継いだ。

セネガルの政治家でイスラムの学識者、エルハジ・ウマル・タールは1826年ティジャーニーヤ教団のカリフに即位し、その10年後現在のギニアのフォウタ・ジャロンへ移り、フランスのキリスト教徒バンバラのアニミズム信者に対するジハードの準備に取り掛かる。 

 1830年、フランスはアルジェリアへ侵攻したが、その2年後、フランス軍に対する聖戦がエミール・アブデル・カデルによって始められ、1847年まで続いた。キューバの新聞はアフリカ北部のその国で展開している闘いに関する情報を発行したが、その中には 1939年11月、エミールが行った演説が収められている。

 

『12月の三日月が姿を現すと、わたしの馬はバ・ベル・ウエッドの入口にある水飲み場で水を飲み、そして間もなく死んでしまうだろう。しかし、アルジェルの扉はわたしの声に開かれるであろう。わたしはマホメッドの約束を思い出させ、偉大なるモスクにいる異教徒達を排除することによって コーランを説こう』

 フランス軍がアルジェリアに侵攻しているころ、キューバでは1842年、マンサノの悲劇 『ザフィラ』が上演されていた。その舞台はまさにアフリカ北部で、16世紀頃のモーリタニア。キリスト勢力によるイスラム領土の搾取をテーマにした劇であった。これは本当に偶然の一致なのだろうか?

アメリカ大陸及びカリブ地域における奴隷の蜂起

 スペインによるアメリカ大陸の植民地化当初から、アフリカ人奴隷による反乱はあった。 その反乱の特徴は、セネガンビアにルーツを持つヘローフェ族が積極的に、また数の上でも多く参加していたことにある。

 1521年にサント・ドミンゴで起こった奴隷による初めての反乱はそのようにして起こった。

 

 それからさらに10年後、カリブ海の近隣諸島における反乱の原因となることから、ヘローフェ族やベルベル族を寄越さないよう、プエルトリコ総督は求めている。 

 1532年9月28日より、『ヘローフェ族、中近東の部族、そして、たとえギニア出身であってもイスラム教徒に育てられた者を無許可でインディアス諸島へ送ってはならない』と、王国の勅令により交易商館に対し警告がなされた。

 その中で彼は次のように述べている。 『アフリカから到着した積み荷の中に、当時植民地において必要とされていた事柄について高い教育を受けた奴隷がその他のアフリカ人にまぎれてやって来ていたのではないか、と思わせるような振る舞いがあり、おそらく、彼らは奴隷制に対する他の行動を思い付くに足る知識を持っている』

 

裏付けられた証拠

 トゥリウンビラートの反乱からほどなく、キューバ総司令官レオポルド・オドンネルは恐怖と抑圧をもって黒人と対峙するようになり、4,000人以上もの人間を警察は逮捕した。

その内訳は:

黒人解放奴隷2126人

奴隷972人

白人キューバ人74人

外国人と身元不明者800人。

 『階段の共謀』と名付けられた陰謀の企てに参加した疑いのある者のなかには詩人のマンサノと、後年銃殺されることになるプラシドの姿があった。また、逮捕者の中にはマンディンガ族出身の混血の解放奴隷、フアン・ホセ・カルボの姿もあった。

彼は1800年当時28才。フアン・ホセ・マンディンガという名前で、グィネス地域のヌエバ・オランダという工場で働く奴隷であった。そして、それから12年後の1812年7月、お金で自由を手に入れる。

  フアン・ホセ・カルボはマタンサスのモレノ(混血の人のこと)、アンドレス・オテロと自宅で頻繁に集会を行っていた廉で告発されている。オテロは詩人プラシドとは大変親交が深かった。

 

 グィネス南部地区の警察署長の報告によると、警察が彼を自宅で逮捕した際、『速記術によって書かれたと思われる』書類を発見した、ということである。 軍事委員会の取り調べに対しこのマンディンガ族の老人は、それらは彼の故郷のならわしに従って自身が書いた物で、在宅時にはそのならわしに従い行動している、と説明した。

 すなわちそこには、就寝時、起床時、日の出の時、食事の時、仕事へ出掛ける時などに彼が至高の存在に対し感謝を捧げ、慈悲を求めるために行っている祈りの言葉が書かれてあった。 

この祈りの書かれた紙は、軍事委員会の関係部署の書類のなかに紛れ込んでいた。

また、この委員会にはフアン・ホセ・カルボがアラビア語の祈りを添えて署名をした、取り調べの議事録がまだ保管されている。

 そしてこの書類がこの論文の論拠となっているのである。

結論

 奴隷商人によって奴隷として新大陸に連れて来られたイスラム系アフリカ人は、その故郷や文化をはじめ、信仰心以外の全てを奪われた。

 彼らは故郷で身に付けたコーランの祈りを記憶の中には留めていたものの、キューバをはじめ、スペイン植民地ではその教えや戒律、伝統を実践することは難しかった。なぜなら、スペインで信仰されていたローマカトリック教はイスラム信者に対し体制的に不寛容だったからである。

 それ故に、我が国においてイスラム教に関する書類や情報を得ることはほぼ不可能に近いのである。 

マンディンガの奴隷、フアン・ホセがキューバに居ながらにして自身の記憶を頼りに書き記したコーランの祈りの言葉、それがわれわれが紹介しうる唯一有用な参考資料である。

 

 彼が行っていた1日に5回の祈りを捧げるという行為は、予言者マホメットの信奉者、すなわちイスラム信者が日々行わねばならない義務のひとつである。 

フアン・ホセ・カルボの告白は、キューバにおいてヨルバ語を用いて儀式を行うレグラス・デ・ オチャ(サンテリーア)やレグラス・デ・イファのようなアフリカ系の信仰が実践されていることを明らかにするものであり、そこからわれわれは、キューバにおいてイスラム教を信仰する黒人が存在することを確認出来た。 

 奴隷解放運動をおこす者の中には常に彼らの姿があり、イスラム的思考や自由への讃歌を広く広めたフアン・フランシスコ・マンサノの悲劇『ザフィラ』や、東洋を扱った悲劇を書いたプラシドことガブリエル・デ・ラ・コンセプシオン・バルデスは、そこから動機や着想を得ていたのかもしれない。 

 

 イスラム系の奴隷の痕跡は、19世紀前半のアフリカ系キューバ人の社会的、政治的思想の中にその姿を留めている。

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ベナン/ダホメ王国
ベネズエラに於ける黒人奴隷のルーツ